12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日おめでとうございます。
日本の教会の保護者であるザビエルの取次ぎを願って、全教会のために祈りましょう。イグナチオ教会では祝日に先立って、9日間の聖体礼拝を行いました。
最終日の礼拝で話したことを皆さまと分かち合い、ともにお祈りいただければ幸いです。

聖体礼拝の祈り;12月2日19:00~

《テーマ:宣教 「収穫のために働き人を送って下さい」

「 その時、イエスは十一人の弟子に現れて、言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
主イエスは、弟子たちに話したのち、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけていって、至る所で宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:15-20)

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。フランシスコ・ザビエルは、このキリストの派遣を文字通り生き抜きました。彼が日本に滞在したのはわずか2年でした。その間、「忍」の一字に尽きる宣教活動が繰り広げられました。しかし成果は少なく、その努力は挫折したかに見えました。屈することのないザビエルは中国に赴く決意をします。中国をキリスト教に改宗させることが日本の回心のためには必要であると考えたからです。しかし、大陸を目前に、で病に倒れたザビエルは、孤独のうちに神のもとに召されました。
1552年12月3日、46歳でした。しかし、ザビエルが日本に灯した信仰の火は消えることはなく、その後の厳しい迫害や殉教の中に、潜伏キリシタンを250年支え続けたのです。

ザビエルが日本に伝えたことは、「神は愛である」という一言につきます。あのザビエルの祈りにあるように、ザビエルを引き付けてやまなかったのは、十字架上で微笑むイエスご自身でした。ザビエルの心を揺り動かしたものは、十字架上で苦しむイエスの姿でした。彼は自分の生き方のすべてをとおして、この神の愛を伝えたのです。この信じる者の情熱が、「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」ことを可能にしました。これらのしるしによって、ザビエルの言葉と行いは真実であることが示されたのです。私たちは毒蛇にはかまれるチャンスはそうないかもしれませんが、この世界には、毒のある言葉はどこにでもあります。毒ある言葉は人を傷つけ、立ち上がれなくします。しかし、私たちが神の恵みにより立つならば、心ない言葉であろうと、毒があろうと、それを跳ね除ける力が与えられます。
わたし達が、ザビエルが日本に敷いて下さった宣教の道を引き継いで、神の愛を、キリストの十字架を宣べ伝えていくことができますよう、ご聖体の前で祈りましょう。

Ⅱ司祭・修道者の召命のために祈りましょう。

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。また群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:35-38)

キリストは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」状態を見て、「憐れに思われた」のです。この動詞は「内臓」を意味する<スプランクノゾマイ>ということばに由来し、「がちぎれる想いにかられる」という意味です。この憐れみが、教えることと、いやすという二つの行為になって表れています。イエスは、群衆を見て、憐れに思われました。そのとき言われたのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」。ある意味で、相手に対し、腸がちぎれるような思いにならないと、このキリスト祈りは生まれないのかもしれません。わたしたちの現実を見る眼は甘く、収穫のために働き手を送ってほしいという祈りに力が入らないのではないでしょうか。

インドで、そして日本で、ザビエルの目の前には、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆がどれほど多く映っていたことでしょう。彼も祈っています。「聖なる宣教活動に身を捧げ、アジアの国々に来て働こうとする協力者が不足しているばかりに、どれほどの回心が達せられずにいることか、それを思うごとに、わたしは大声を上げて叫びながら、欧州の大学に躍り込んでいこうという衝動に駆られます。己のことを求めず、イエス・キリストを求める人々を召し出していただきたいのです!」と。
この祈りをわたしたちの祈りにしましょう。この状況は今の日本でも同じだと感じます。求めている魂、病んでいる魂が多く、自ら死を選ぶ人さえいます。福音が宣べ伝えられ、正しく導いてくれる働き人がいれば、その人たちの魂は息を吹き返すのです。
これまでの日本は、その働き手の多くを、外国人宣教師に頼んできました。しかし、現在、他所に頼むのではなく、わたし達日本の教会の中から起こされなければなりません。救いを受けた人が福音を伝える証人になっていくことです。考えてみれば、私たちは、キリストのこの祈りの要請に真剣に応えているでしょうか。まず、私たち一人ひとりが働き手であることを心に明記したいものです。そして、若い人々の心に、司祭修道者の道への望みを燃え立たせてくださいますように、真剣に祈りましょう。
「主よ、ご覧ください。わたしはここにいます。わたしに何をお望みでしょうか。どこへなりと思し召しの所へ私をお遣わしください。」

杉原法子